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長い感想

100文字では足りなかった時に

寝かせた方が味が出る

感想いろいろ

このところ、桜が咲いてくると聞きたくなるのは、キリンジの「今日の歌」。

はっなーびえーーにー、ふるーえるーおれーのーー、かたをぉっ…

の、「かたをぉっ…」のところがすごく良いと感じる。プチ絶唱感というか、ため息系絶唱というか。

この歌は、桜の季節の、それも寒い日にすごく聞きたくなる。春の歌とは思いにくい、しんみりと鬱い曲調もまた「桜の花の満開の時」を思い出させる。
東京だけかもしれないが、ソメイヨシノの花の時期には、開花前に一度気温が上がって、満開前後にもう一度寒の戻りがくる。その気温の上り下りを経験してからでないと、ちゃんと春にはならない。一度はあたたかくなるもんだから「あぁもう春なのだ。寒くてキリリとした冬とはお別れで、だらりとあたたかい春がやってきたのだ」なんて油断したあたりでピンク色にほころびはじめ、本格的に「さて春!」と思わせておいて、その後、満開に近い頃にいったん、気温がぎゅーっと寒く戻って、うかれて花見に出かけた私は大抵鼻風邪をひくのである。もうそういうことを何十年もやっているのにちっとも学習しない。そういうふうにできているのだろう。私が馬鹿だということではなく(いやばかではあるんだけど)、花見しながら鼻風邪ひくとこまでセットで「春の実感」である。

で、「今日の歌」は、そういう、ソメイヨシノの満開の時の、きんと冷えてかわいたある一日に、すごく似合うとても良い歌だと思う。
東京は、今日(3/24)がまさにそういうよく冷えた日で、移動のお供はずっと「今日の歌」を聞いていた。まさに「今日の「今日の歌」」。

 

「今日の歌」が入っているキリンジのアルバムは「SUPERVIEW」というもので、この次の曲は「祈れ呪うな」という曲である。福一の原発事故の歌なのだが、確か配信されたのはアルバムに先行して、福一の事故の1年後ぐらいだったように記憶している。
キリンジがそういう歌を作ったらしいことを知り、私は当時、配信を心待ちにしていた。ヒステリックな言説に辟易としていたのだ。セルフカヴァーで反原発ソングを歌いあげたミュージシャン(誰だったかは忘れちゃった。好きなミュージシャンじゃなかったのはホッとした)は、すごいなーとは思ったし、文章を書く仕事の人たちが色々書いていたことも、うなずけるものももちろんあったが、ヒステリックなものや結論がたった一つしかないものは、どうも違うんだそうじゃないんだ、という気持ちだったのだ。
「違う」というのは、お前らの主張は間違ってる、ということでは全くなくて、せっかく音楽や言葉を創造する仕事を受け持った才能のある人たちが、せっかちな「取って出し」のようなものを作ってしまっていたのが、とにかく残念で仕方がなかった。
もちろん、そういう人たちだって反射的な創作をする必然性もあったんだとは思う。何しろあの頃は、私自身も含めてみんながささくれだっていたし、ささくれた気持ちを整理するために、とりあえず文章を書いてみようとか言葉を綴ってみよう、演奏をしてみよう、というのは、ある種とても健全なことなように思うし。

でも「取って出し」なものでは表せない複雑さや重さや奥行きを、私は、私の好きな「創造担当」の人の作ったものを手にとって聞いて確かめて感じ取りたかった。だから、キリンジが作る原発事故の歌が本当に楽しみだったし、実際に聞いた「祈れ呪うな」は、「取って出し」ではない奥行きを持った歌だったので、本当に命拾いしたのだ。

311のあと、仕事が激忙しくなって、それも震災に関連する仕事、割とやるせないものだったり考えたところでよいアイディアもみんなが納得できるような結論も出ないような仕事も多くて、ヘトヘトですり減っていた私は、ばかもののように「祈れ呪うな」をリピートして聞いたりしていたのだ。2011年といえば、地震原発事故の年でもあるが、なでしこジャパンがワールドカップを手にした年でもある。ドイツ大会なので試合中継は夜中~明け方にかけてだったのだが、2011年の夏の私は仕事で午前様(古い)続きで、帰宅してそのままちょうど試合が始まったりとかしていた。そのぐらい忙しかった。出口のない仕事で。
なでしこジャパンの活躍も、ヘトヘトでぺらっぺらになった私を支えてくれた力であったが、同じように「祈れ呪うな」も、重くて仕方がない足を、上げて一歩前に歩ませる助けになったものだった。

 

それで。東日本大震災からまる4年が過ぎて、花冷えの日に久しぶりにキリンジを聞いて、「祈れ呪うな」が、少し違って聞こえた。
やっぱり、時事問題を「時事問題のまま」に創作すると、賞味期限って結構むずかしい感じになるんだな。あの時は本当に助けになった歌だし、今でも素晴らしいものだとは思うし、時事問題のまま作ったものだから当然といえば当然なのだけど、普遍性を獲得しにくい。
普遍性がありゃいいってもんでもないし、時事的なものの価値も当然分かってはいるが、でも、鮮度が落ちてしまう。特にキリンジは、魚は採れたてが一番旨えんだ!という漁師料理のお店というよりは、きちんと仕事をする板前さんの居る店のような人たちだから、なおさら「祈れ呪うな」が浮いてしまうのかもしれないが、逆に言うと、仕事の丁寧な板前でも時事テーマは難しいということなのかもと思う。

 

そこで村上春樹である。

私は、村上主義者というにはほど遠いが春樹さんの書くものが割と好きで、ぱらぱらと読み散らかしている。系統だてて読んでるわけでもないし、分析するのも無粋な感じがあるが、彼の書くものは、ビフォー・アンダーグラウンドと、アフター・アンダーグラウンドでかなり違うと思う。何かご本人もそんなようなことを言ってたような記憶があるが。
アンダーグラウンド地下鉄サリン事件オウム真理教に関する、ドキュメントというにはちょっと手触りが異なる本で、今奥付見たら、出版されたのは1997年。地下鉄サリン事故から2年である。かなり綿密に取材しているので、恐らくこれは「村上春樹的取って出し」なのではないかと思う。取って出しにしちゃ厚みも奥行きもすごいことになってはいるのだが。さすがノーベル候補で賞。

それでね、アンダーグラウンドはドキュメンタリーなのだ。アレを書いて、その流れの先、つづきが多分「神の子供たちはみな踊る」である。これは短編集。まぁ繋がってる話だけど、短編。

その流れは時間とともに流れて、直近だと1Q84までたどり着いたのかなと思う。1Q84は小説。それもちょう長い。何しろ3分冊。それも3冊目はちょっと間を置いて出版されていた記憶がある。何でか理由は知らないけど、いっぺんに出す感じじゃない分量、ということだろうなと思う(執筆期間に実際に間が空いてたかは分からない。長編小説はいっぺんに書きあげるとどこかで書いていたような気がするが…)。

阪神・淡路大震災サリン事件が、「今の村上春樹」を形作る小さくない要素だとして、彼がそれらの体験を本業である小説の形にするまでに10年以上がかかっている。それもドキュメント→短編→3分冊の超長編と、まるで丁寧に反閇を行っているかのような創作の足跡である。

簡単ではない大切なことを、深さや奥行きをもって表現しようと思ったら、やっぱり10年は寝かせなきゃだめだ。いやだめじゃないが、寝かせないと、時事に普遍性が宿らないのではないか。単に時間が経って時事に対する世評が落ちついたからという単純な話じゃなくて、消費される商品じゃなくて創作物や芸術に近づくための普遍性は、寝かせなくては獲得できないんだろうな。そして、私はそういう、消費されるためのものよりも、普遍的な大切なことがとても好きなのです。
東日本大震災や福島の原発事故を通じて、あと10年ぐらい経ったら「普遍的でとても大切な何か」が表されたものは、出てくるのだろうか。出てきてほしいな。ヒステリックな条件反射運動みたいな言説は、やっぱりイヤだよ。見てると心がすさむ。生産性もあんまないし。

とても大好きなミュージシャンで、日本人でポピュラーミュージックを作って売っている人たちの中では、一番「普遍性」に近い場所にいるキリンジでさえ、時事ネタを作らざるを得ない気持ちになったのかなと思ったりも、するんだけど。

 

ああやっぱり、なんかこの話は、ずっと4年間考え続けていて、ぽつぽつ言葉にしたり人と話したりしているけれど、やっぱり上手く言葉にできない。
この文章も、冗長だし、読み返しても抱えている気持ちをあんまりうまく表せていない。本当は私も、もっと寝かせた方がよいのかもしれないけど、鳥頭で忘れちゃいそうだから、今日の「祈れ呪うな」を聞いた時の驚きを動力にして言葉にしてみた。

 

 

話は変わるが、キリンジはもうずっと好き続けていて、これは人生のピンチ!という時期(大げさだが深刻)を何度か救われている、命の恩人である。どうにもこうにも、心を持って歩く気力もないような時に、キリンジの何かの曲を耳に突っ込んでそれを助けに歩いていた。そういう存在。野良の虹がが一番好きです。カラオケで歌うの難しいな。
りゅーうせっいっのー、いーれっずっみーをまっぶたーに、きーざーめー、
たーもーとーをーわかーつ、のっらーのーにーじー、
ここ、メロディ取りにくいすぎる。何でこんなひねくれたかねw