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長い感想

100文字では足りなかった時に

近代日本文学の父たちを

長すぎるブクマ的なもの 感想いろいろ

森鴎外、好きなんですよ。舞姫とかウィタ・セクスアリスはあんまりイマイチなのだが、色々人生の挫折があったりしたのちに「歴史其儘」とかいうもんをやり始めてからの鴎外は中々の凄味があって大変味わい深い。

togetter.com

森鴎外に出会ったのは高校の授業で取り上げられた時、国語の先生が割にステージ高い人で、教科書に載っている舞姫なんて読まずに「歴史其儘と歴史離れ」という小文と、渋江抽斎、興津弥五右衛門の遺書のコピーを、贅沢にもばさーっと配って、更に、森鴎外の残念で悪妻な人生を取りあげたNHKのドラマを見せてくれてからの、コピー読んで感想をディスカッションしましょう、という授業であった。贅沢授業。小説を文学として理解するためのまぁ、基本的な方法を教えてくれたかたちである。

悪妻だったからとか、元祖マザコンガリ勉君であるとか、舞姫のエピソードは実話だとか、実は森鴎外は大変残念な人である。あんなに頭が良いのに持ち腐れだなぁとも思うが、そういう人生の紆余曲折によって生まれる心のひだひだを、どうしても文章にして綴りたかったんだろうと思うと、可愛らしいような尊敬するような気持になる。しかしどうも上のtogetterを見ると、学校の先生はそうでもない人も結構居るらしい。ステージの低い先生だな。まぁしょうがないけどさ。

 

漱石もそうなのだが、鴎外も、出発点は「文章を書くことで身を立ててやろう」ではない。だが、明治の二大文豪にして現代語における小説文法を作り上げた人でもある。二人とも、学者にならなければとか医者にならなければという義務感のなかで、家庭と社会と自分の3つの重ならなさ加減というか、抱えきれないものを、なんとか形にして人に伝えたいという必然性に突き動かされて、日本でほぼ初めて「近代自我」を発見して文章にしたわけだ。
高校生にもなったら、このぐらいのことは教えるべきだと思うわけですよ。舞姫の主人公が倫理的かどうかなんて教える必要すらない。感想としては「それもまたアリ」ではあるが、正直、小学生の読書感想文レベルだろう。それにそんなもんしか教えないならそんな国語は止めてしまって数学とか物理の時間を増やした方がマシだと思う。数学と物理は内容に比してカリキュラムの時間数が少なすぎる。

近代自我なんてもんは、21世紀に生きている私たちにとっては当たり前すぎて、空気ではないけれど普段生きていてその存在にすら気付かないようなもんだ。

でも、「そういう感情」に名前を付けて、その感情の来た道や行く末を考えたり分析したりすることは、小説という芸術の大切な存在意義の一つなわけで、国語の先生が「それ」を高校生に教えずして何を教えてるんだ、やっぱり数学に時間分けてやれよと思うわけだ。私は数学が苦手だったから余計にそう思うのかもしれない。

それに、当たり前に自我を抱えて他人との相克に苦しむ気持ちは、むしろ現代の私たちにはとてもマッチする問題意識だったりもしますよ。こんな大切なテーマを。ないがしろに。

森鴎外の、特に歴史其儘の小説群は、昔は中々手軽に読むことが出来なかった。私は学生時代に早稲田通り沿いの古本屋で一山いくらになってた全集を何冊か買って読んだ。今は青空文庫があって、多くのものがスマホで読める。大変良い時代である。なのに、そんな良い時代であることも生かさずに、今どきの国語の先生は何を考えているんだろうね本当にもったいない。

 

まぁ、でもいつまでも「こころ」と「舞姫」ってこともなかろうとも思うのは確かだ。漱石は「こころ」よりも「それから」の方がずっと愉快だと思うし、短くて読みやすい。どうしても漱石を教科書で取り上げるなら、それからを載せておいてこころはサブ教材ってほうが合ってる気がするなー。こころはそれからの代助さんの後日談説とかもあるしね。