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長い感想

100文字では足りなかった時に

ジャズ話つながりで、親孝行としての「趣味プロデュース」の話

家族のこと

ジャズつながりで。父との思い出の話。

 

父はジャズ好きだった。もう死んじゃってるから過去形。
父は、ジャズしか聞かないジャズ原理主義というかジャズ赤軍派みたいな人だった。
ロックもNG、ブルースもNG、もちろん歌謡曲や演歌は論外。妙なもの聞くぐらいなら無音がいいと言うような人。家族でドライブに行く時は、妥協点として「これなら許せる」キューバンミュージックとかスカとかカリプソとかそういうのを聞いていたような、まぁ赤軍派である。

だからと言って赤軍派の父から私がジャズの薫陶を受けたとかそういうことは全くなく、私は私で、独自に勝手に、女子高生だったある日突然ジャズを聴いてみようと思って、予備校サボってお茶の水ディスクユニオンに入ったのがきっかけである。薫陶を受けたどころかむしろ、子供の頃は父が「音楽全般が嫌いな人」だと思っていたぐらいである。自分のことは話さない人だったから。

 

それよりも、父がなぜ私にジャズの薫陶を施せなかったかというと、貧乏だったからである。母が話してくれたエピソード『お父さんが結婚した時に持ってきた荷物って、かばん1つに入った着替えとジャズのレコード3枚っきりだったのよ!』というのが、いかにも60年代ぽくて*1割と好きなのだが、父の「結婚支度」であるその3枚のレコードは、カウント・ベイシーデューク・エリントンディジー・ガレスピーである。ベタだな父さすが私の父。
おさいふと相談して厳選した3枚だったのかなぁとか想像するととてもかわいい。

 

私も大人になった頃、ある年の父の誕生日に、面倒くさがる父をタワーレコードに引きずって連れて行き「お父さん、この階に置いてあるのは全部ジャズなのよ、だからここから好きなだけCD選んで」という誕生日プレゼントをやったのだ。

 

戦前生まれの古い人間だったし、家族を養うための自己抑制を当たり前のように生きていた人だったから、若い頃には宝石のように手の届かなかった値段だったジャズが、日本の経済発展やら円高やら円安やら技術革新やらなんやらの結果、いつのまにか、値段も品ぞろえもすごくお求めやすいものになっていたことに気が付いていなかったのだ。最初は面倒くさがり、かつ娘の前で趣味嗜好を見せるのを照れる様子だった父を「じゃあ私は下の階で私が欲しいものを探してくるから、お父さんも探しておいてね!」って3、40分放置して戻ってきたら、CDの山を抱えた父が棚を端から順に見ていたのが、とても面白かった。
最後は、父が棚からぬいてきた山ほどのCDの中から、十数枚を二人で厳選して誕生日プレゼント終了。

 

それから父が死ぬまでの20年ぐらいの間は、こつこつと「昔買えなかった盤」を楽しみ、たまに実家に顔を出した娘と色んなジャズ話をしながら一緒に聞いたりするというなかなか悪くない趣味ライフを送っていたと思う。趣味再開するきっかけ作れてよかったなという話である。ピット・イン行ったり、マルサリスが来るよ!セイジ・オザワがガーシュインもやるし!と引っ張りだしたり。良い思い出である。

 

子供の頃は「お父さんは音楽は全部きらいなんだ」と思っていたのに、ある日実はジャズ赤軍派だったのか、とバレたきっかけは、東京スカパラダイスオーケストラである。私はミーハー中学生だったのでスカパラかっけー!と友達から貰ったテープ(古い)を、家族でドライブの時にかけたのだ。
いつもなら、好きじゃない曲をかけられて限界がくると「もう止めるぞ」と言って止めちゃうのに、ステアリングを握る父の手の指が、スカのリズムに合わせて、ンチャンチャンチャンチャ、トントントント裏拍を打っていたのを娘は見逃さなかった。
お父さんノッてる!さては好き?これ好き?音楽嫌いじゃなかったの?どうしてこれは好きなの?と畳みかけ、更に母からの冒頭の結婚時エピソードによりコーナーに追い詰め、自白に追い込んだかたちである。

結果、ジャズ赤軍派とミーハー娘とのドライブ・ミュージック妥協点はラテンミュージックになった。ライ・クーダーあたりがギリギリライン。まぁ、その少し後に娘がジャズ覚醒するまでのお話。

 

なのでこれは、スカパラありがとう。という話でもあるな。
スカパラほんとありがとうね。

*1:二人が結婚したのは1966年とか7年とか、そのあたり