読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

長い感想

100文字では足りなかった時に

笑いの方法としての「いじり」についてメモ

長すぎるブクマ的なもの

昨日の夜中に引き続き。興味深いブクマがたくさんあったので。

批判とか同意とかじゃなくて、色んなアイディアや考え方や視点があって面白い。ブクマってこういうとこ、ほんと良いなぁ。まったりするわ。

はてなブックマーク - 「いじり」という下品な笑い - Togetterまとめ

  • 笑いってそもそも差別的な要素が内包されてるわけだしなぁ
  • いじり笑いって、関係性の笑い(内輪、他者依存的など)だし格が落ちるんじゃね?
  • いじり笑いの諸悪の根源って紳介・松本(および吉本興業的なるもの)じゃね?
  • いじり笑いって(欽ちゃんとか海外にもあるだろ等々)関西がルーツってわけでもなくね?
  •  そういやタモリだって結構エグイいじり笑いやってたぞ
  • ノーいじり(伊集院光とかコロコロチキチキペッパーズ)だって十分面白くね?
  • 昔の笑いは良かったって言うけど、実は、今見るとエグイ差別的なものも多かったくね?(所謂「色々考慮して原文のままとしました」問題ですね)
  • いとこい師匠は面白い(ホント同意です。私もいとこい師匠大好きです)

 

などなど、その他もろもろ、すごく興味深い、面白い、色んな意見があって。

 

私は、こちらに書いたように(逢沢りくを読みながら、自虐の境界線を確かめる - 長い感想)、共通認識をきちんと醸成できてない場所での「いじり笑い」は、そりゃ共感されにくかろう、そしてそれはルーツが関西だろうが紳介だろうが欽ちゃんだろうが関係なくね?という立場を取るものだったのだが、色んな意見を見て、おおそんな考え方もありましたか、とかへえそうなのですか、とか、すごく面白いと思っております。そういえばタモリが世に出てきた頃は「名古屋いじり」とかやってたものね。そして四か国語麻雀なんてのも、一種の人種ジョークでもあったりするわけですし。

 

個人的には、「悪のいじり笑い」の旗手に松ちゃんの名前が挙がってるのは切ない。好きなんで。
ダウンタウンについて言えば、売出中の頃は自虐だったと思うのよね。バブルがあって地震があって再開発もあって、時代と共に今は阪神間の街のひとつですけど何か?みたいな顔をしているけれど、「尼崎」の悪たれというのは、80年代の中ごろまでは「ああ…w」という感じだったと思う。アマの悪たれ*1が何を吠えたところで、という感じだったんですよ。貧乏トークもよくしてたし。今はもう尼崎も小ぎれいになっちゃたし、ダウンタウンもお金持ちだし大御所だし自虐をやれる土壌はないだろう。ただ、TVで見かける松ちゃんのツッコミコメントは、アイディアで面白くしようとしているものも多いと思うので、いじり笑いやんとカテゴライズされてしまうとちょっと悲しい。
まぁでも「そういう共通認識」を共有してない人にとっては、悪のいじり結社の総元締めの一人だと感じるのはしょうがないわけです*2

 

タモリに関しては、元々が「密室芸」の人だし、「タモリの世界」という「場」から出てくることはめったにない。タモリがゲストで出るのは徹子の部屋と番宣番組ぐらいだろう。世界を収縮させてそこにおびき寄せるわけだ。中では割ときわどいことをやってるけれど、そもそもおびき寄せられた方が悪い。ハイブロウな見世物小屋というか*3

 

落語の笑いには「いじり笑い」がない、というid:monobako さんのブコメが、落語絶賛興味中の私の心に残ったんですけど、確かに落語の本ネタにはいじりはほとんどないですね。monobakoさんがブコメでご指摘されているように、一人で演じ分けるのにいじり芸って成立しにくいだろうな、というのもすごく納得感がある。落語って笑わせようとしている芸だけど、一方で「話を聞かせる」芸でもあるので、いじりよりも筋を伝えることが優先されるのかもしれないし、ひとりでイジリ芸やっても、そもそも楽しくなさそうである。どんどん陰険に、内にこもっていきそうだ笑。
蛇足ながらわたくしが付け加えるのならば、落語に出てくる人たちって、だいたい全員がばかものなので「いじる役」が必要ないですね。強いて言えば、落語を見ている私たちがげらげらと「ああまったく、ばからしい笑笑笑」とニコニコすることで成立しているのだろう。落語家さんってちょっと幇間的というか、下から笑わせるのが常道であるようにも思います。

ああ、あと、本ネタには出てこないけど、マクラとかクスグリには楽屋オチとか内輪ネタとか内輪イジリは頻発します。大御所イジリとかね*4
よく見かけるのは、前の演者さんが熱演でウケてた後なんかに「ただいまご挨拶させていただきましたが、どうも床が…しっとりと汚らしい(床やざぶとんにつばきがかかってる)笑」なんてのとか。前の噺でウケた空気を旨いこと持っていくカシコイ構造だなーって愉快になる。
あと落語家さんって講釈師のことを結構バカにする言い方する時ある。偉そうとか武張ってるとか堅苦しいとか、私らはせいぜい「師匠」だけどあの方々は「センセイ」と呼ばれるが、センセイなんて言ったところで「まず、生きている」というような輩もおりますが…なんていうのも定番のマクラだったりします。寄席興業という「内の世界」で講釈師(偉い)⇔落語家(軽い)みたいな構図があって、落差を作ってるんだろうと思う。
あとは、大御所イジリとかでもそうだけど「落語の世界」の共通認識があってこそ、かなぁという気もしますね、やっぱり。

 

というわけで、すごく面白いブクマ群を読んでたらつらつらと連ねたくなった「笑いとイジリ、そして落語って楽しいね」という駄文でした。

まぁ、発端の漫画家風の方の「関西のお笑いは東京では通用せえへんで、気を付けなはれや!」みたいなのは、やっぱり割と的外れちゃう?という思いは変わらないですねぇ…。

*1:父が大阪出身なもので、我が家では、八尾のオッサン、岸和田のオッサンなどと同意の愛すべき残念な人たちというくくりで語られておりました。父自身も阿倍野のオッサンだったので自虐の一種だと思う。

*2:そういえば「ダウンタウン成功物語」的なものでよく語られるエピソードで、ダウンタウンの番組の専属のようになっていた放送作家の高須光聖が、ウッチャンナンチャンの番組の作家を打診されたときに、大崎マネージャー(当時)が「あとちょっと待ってくれ」とタイミングを後ろずらしさせた「ダウンタウンが天下取るまで」という話があって、「天下取る」という中には「ダウンタウンの笑わせ方という共通認識」を最大公約数の人に知らしめる、という要素も入っていたんだろうと思ったりする

*3:笑っていいとも「架空説」「真空説」など色々言われていたけれども、いいともってタモリの密室性を究極の抽象化・無化したなにかだったと、今考えると思う。笑っていいともを作った男・横澤彪のインタビューを大昔の宝島か何かで読んだことがあるけれど、「楽屋オチや芸人特有の下品さ(女博打金の話ばかり)の前番組(笑ってる場合ですよ!)をなんとかしたくてタモリを口説き落とした」と話していたのが記憶に残っております

*4:笑点における歌丸イジリ、木久扇イジリなどを参照のこと。あれは長年積み重ねた「お約束という名の国民的共通認識」が素晴らしいですよねぇうっとり。